↑前置きが長いのでよろしければショートカットにどうぞ。
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最近一目惚れして買っちゃったものをご紹介します。
大阪市営地下鉄(現Osaka Metro)の案内サイン板です。
といってもだいぶ前、昭和の頃に使用されていたものです。同タイプの案内サインは、いまや普通にOsaka Metroを利用していてもまず見つかりません。大勢の目につくところからは完全に撤去されてしまったのです。
まずは、この様式のサインが制定されるまでの過程からご紹介したいと思います。
ヒゲ文字
大阪市営地下鉄のサインを追っていくと辿り着く最古のサインが、「ヒゲ文字」と言われる、独特の装飾が施された交通局オリジナル書体を用いた案内サインです。
▲長堀橋駅。撤去済み
▲なんば駅。撤去済み
▲谷町九丁目駅。2020年8月現在現存
文字を拡大して見てみましょう。
画のとめ・はねに明朝体のような山が設けられているのが伺えます。これが「ヒゲ」で、ヒゲ文字最大の特徴です。妙に縦長な文字が多いのも特徴といえます。
この文字は大阪市電の停留所の駅名標にも使用されていることから、相当古い時代から大阪市交通局(大阪市工務課)内で標準となっていたフォントであるようです。
現代のデジタルフォントでは表現できない“レトロさ”が愛くるしいですね。だからこそ一部に熱狂的なファンが多く、オークションではたまに出品されれば、それはもう高価格で取引されています。私も隙あれば購入したいと思っていますが、なかなか機会は訪れないものです。
守口サインとヒゲもどき
時代の流れに沿って、大阪市営地下鉄のサインは次のようなものに移り変わりました。
▲守口駅。更新済み
▲同上
▲守口駅。2020年4月現在現存
「守口サイン」と言われる、谷町線の守口延伸時に各駅に整備されたサインです。アクリルの切り出し文字を貼り付けるという基本設計はそのままに、体裁が大きく変わっています。
デザインでは、シンボルがコマルマークではなくなり、今に通ずる地下鉄の電車マークに変わっているというのが大きいですね。
文字の面を見てみると、あれだけ存在感を主張していたヒゲが消滅しています。特徴的だった山がなくなり、シンプルな輪郭になっています。また文字の縦横比が正方形になっています。
このあとも大阪市営地下鉄はサインの改定を重ね、ある時期から見慣れた黒地のサインが導入されるようになります。
この黒地のサインが登場したことで、これまでアクリルの切り出し文字だったのが、初めて印刷されたステッカーが用いられるようになりました。
で、この「守口サイン」ができるまでの過程で、ちょっと特殊な文字が採用されたサインがあるんです。
新深江駅に現存するそれ。分かりますでしょうか。
▲谷町九丁目駅。2020年6月現在現存
▲日本橋駅。おそらく現存
▲堺筋本町駅。おそらく現存
▲本町駅。おそらく現存
他の駅でも見られる例を挙げてみました。
どれも縦長で、ヒゲ文字と似た輪郭の文字なのにヒゲがない。ヒゲ文字もどきの文字が取り入れられているサインが登場したのです。
この“ヒゲもどき”はヒゲ文字よりも後期に登場したことから、ヒゲ文字よりも残存数が多く、実は今もそこそこの数のサインがOsaka Metroの駅構内に設置されています。
前略が長くなりましたが
今回ご紹介するのは、このヒゲもどき時代に作成された案内サイン板です。終電案内として駅名看板の両脇に設置されていたものですのでメインの看板ではありませんが、雰囲気は抜群! さっそく見ていきましょう。
この3枚セットで谷九駅の案内板として出品されていましたが、3枚目の「天王寺行」しか書かれていないものは、初発・終発の発車時刻がちょうど1駅分ずれていることから、1つ隣の谷六駅のものだと思われます。
このサインの文字はぜんぶアクリルの切り出し文字で製作されています。なので横から見るとこの凸凹具合。手で触るとかなり尖った感触があります。
これを手作業で1文字1文字製作していたという事実だけでも、気が遠くなってしまいそうです。
地になっているアクリル板をよく見てみると、文字がはがされて張りなおされた跡があります。終電の行き先が都島行→守口行に変更されているのです。
ここからこのサインがいつ整備され、いつ役目を終えたのか推測してみましょう。
谷町線は1974年に都島~天王寺間で部分開業、1977年に守口まで延伸開業しています。その後1980年に南は八尾南まで、1983年に北は大日まで全通し、現在の姿になりました。
千日前線は1969年に野田阪神~桜川間と、谷町九丁目~新深江間が部分開業、翌1970年に谷町九丁目~野田阪神間が延伸し、野田阪神~新深江間で直通運転を開始しています。南巽まで延伸したのは1981年のことです。
千日前線の案内が「野田阪神行」「新深江行」となっており、文字が変更されていないことから、野田阪神~新深江間が直通した1970年より後に整備され、1981年の南巽延伸までに撤去されていることが分かります。
さらに谷町線の案内から時代を絞り込んでみましょう。終電の行き先が当初「都島行」「天王寺行」となっていることから、都島~天王寺間が開通した1974年よりも後に整備されていることが分かります。
また南行が天王寺どまりであることから、1980年の八尾南までの延伸時にはすでに役目を終えていたと推測できます。
以上よりこのサインは、1974年以降に整備され、しかしわずか10年たたず1980年までに役目を終えていること、
そして、非常に限られた期間しか活躍しなかった、でも市営地下鉄の黎明期をしっかり見届けたサインであることが分かります。
……と、軽々しく書きましたが、長くとも昭和にわずか6年間だけしか設置されていなかった仮設置に近いサインが、令和の時代に出回るってなかなか奇跡に近くないですか?!
こういうサイン類は本来役目を終えれば処分されるはずです。それがどういうわけか、正規ルートから外れて個人の手で大切に保管されているケースがあるというのは、案内サインファンとして夢が膨らみます。
続いて職人技ともいえるアクリルの切り出し文字の数々を見てみましょう。
まずは野田阪神の「野」。現代のデジタルフォントではおよそ表現できない、手書き風のゴシック体です。
10画目の角が少しへこんでますよね。どうやら切り出す際に、ここに誤って刃が当たってしまったようです。
とはいえこの文字、なんと縦3cmしかありません。しかも相手は紙ではなくアクリル板です。
一か所くらいはミスがあってもまったく不思議ではありません。
続いて野田阪神の「阪」。どうでしょう、この人間味あふれる"はらい"と"はね"!
いまのデジタルフォントは「反」の4画目の“はらい”を、大概1画目のノと離れた3画目の途中から書き始めます。
それに対して4画目を3画目の付け根から堂々生やしているヒゲもどき。最高です。
新深江の「新」。ひげもじの名残でしょうか、11画目の頭に山が見られます。個人的に好きなアクセントです。
そして新深江の「深」。このサインで一番好きな文字です。
さんずいの長さが全然違ったり、6・7画目の書き始めの高さが不ぞろいである点なんかもう最大級の萌えポイントですよね。
そして見過ごせないのが、実は7画目と「木」が繋がっている点。どんな繊細な作業をすれば、ここを数ミリ残したまま切り出せるのでしょうか。まさに職人技です。¥
そして最後は何時何分の「時」。個体差ありすぎ。
線の太さ、寺の横画の長さ、最後の点の太さ・長さ・角度。ぜんぶの文字でぜんぶ違います。
ちなみに「時」は縦2cm、横1.5cmの極小サイズです。よくこんな緻密な文字を複数個作ってましたわ…尊敬します。
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そういうわけで、職人技が光る切り出し文字サインをご紹介しました。
こんなの何枚持っていても飽きが来ませんよね。機会を見つけたらまた手を出してみようと思います。
それではー。