生駒トンネルの話

生駒トンネル──
 
現在は旧東大阪線けいはんな線が一部を使用しているが、途中から「廃トンネル」として現在はそのけいはんな線などの電力設備をおくためのトンネルとして再利用されている。
 
奈良線が使用しているのは、「新生駒トンネル」というもの。
これは、生駒トンネルでは大型車両が走行できないため、あたらしく掘削したもの。
 
 
しかしこの生駒トンネルは、かなりいわくつきのトンネルといわれています…
 
 


トンネル掘削中であった1913年に、大規模な落盤事故を起こしました。
その後、トンネルの建設を中止するかという議論がありましたが、建設の再開を決断します。
 
難工事の末に、1914年にようやく開通した。約33か月にも及ぶ大工事でした。
 
 
しかしその後、1946年に、トンネル内で車両火災が発生した。死者23名で、負傷者75名。翌年にも再び車両火災。今度も40名が負傷。
 
そして1948年。死者49名、負傷者282名を記録した、河内花園(現在の東花園)駅構内で大惨事が起こります。それが有名な「奈良線列車暴走追突事故」です。
 
 
そして有名な怪現象「奈良行き最終列車」の話。
 
ひともまばらな最終列車が、孔舎衛坂(くさえざか)駅(※現在は廃止)を出発。
生駒トンネルに差し掛かった瞬間、いままでガラガラだった車内が満員電車に変わるというもの。
窓には無数の人影。連結部分からのぞく不気味な男性。つり革を握る白い手。
 
あまりに苦情が寄せられたため、大鉄(のちの近鉄)はある「案」を作りました。
それが「架空の最終列車」。通称「幽霊列車」です。
 
これを最終列車の後に走らせたのだが…状況は悪化。むしろその人影は増すばかり…
 
 
──そして年月がたった1982年。東大阪線へのトンネル切り替えのための工事が着工される。
工事中の1984年、湧水により地表の陥没事故が発生。
 
1986年に開通したものの、1987年にまた、漏電による「火災事故」が発生。
死者が1名出ている。
 
 
あのときの怨念は、いまだに残り続けているのであろうか──
 
 
 
 
 
 
 
 
※これより下、閲覧注意。怖い話を怖い話で終わらせたい人は、これ以上スクロールしないこと。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


…と書いてきましたが、ここからは軽く事故の背景などを話していくいわゆる「ネタばらし」みたいなものです。
 
まず「車両火災」ですが、これは歴史的背景が関係します。
当時は太平洋戦争真っ只中。物資は限られてきます。そしてそれは、鉄道会社も同様です。
 
そのため、列車の点検などが安易ではなく、十分な状態ではなかったことがあげられます。
 
 
 
さらに「奈良線列車暴走追突事故」ですが、これも戦時中だったため、ブレーキに使われる「ゴム」の劣化により起きたものとされています。
生駒トンネルは、奈良方から大阪方へ急な下り坂となっていて、それは今も奈良線に残っています。
そんなところでブレーキをかければ、劣化したゴムなんだから切れるのは当然。
 
 
そして一番肝心な「最終列車」の話。これは、架空の列車ではなかったという説が一番強いです。
というのも、当時は今のようにコンピュータなどは一切といっていいほどない時代ですから、駅ごとの乗降者数や売り上げなどを回収して回る列車が必要だった。
それが走る時間帯が時間帯だっただけに、「幽霊列車」といわれてしまったのではないかというもの。
 
各駅に停車していたのであれば、駅ごとに奈良方面への帰宅職員が乗車していると仮定した場合、列車が「さらに満員」だった理由も把握できます。
 
 
以上、特段怖くない話をさらに盛り下げる無駄な話でした。
 
それでは~
 
 
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